日本遺産

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2つの「日本遺産 -Japan Heritage-」を擁する街、甲賀市。

「日本遺産」は、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産」として文化庁が認定するものです。

甲賀市は2つの「日本遺産」を擁しており、ともに独自の歴史を深く感じさせるコンテンツとなっております。

では、甲賀市の「日本遺産」をご紹介します。

Japan Heritage STORY #042

忍びの里 伊賀・甲賀

-リアル忍者を求めて-

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リアルな忍者を求めて

忍者は今やテレビやアニメを通じて海外にまで広く知れ渡り、奇抜なアクションで人々を魅了している。江戸時代以降、歌舞伎や小説の世界で、不思議な術を使って悪者を討つというストーリーで人気を博してきた。一方、イエズス会が編纂した「日葡辞書」には、忍者は「Xinobi」(シノビ)として記載され、17世紀初頭には海外の人々にまで伝わっており、そこには「戦争の際に、状況を探るために、夜、または、こっそりと隠れて城内へよじ上ったり陣営内に入ったりする間諜」として紹介されている。

各地の大名に仕え、敵情を探り、奇襲戦にと戦国の影で活躍した忍者たち。忍者の名は広く知られていても、今日なお謎に満ちており、真の姿を知る人は少ない。今、求められているのは忍者の本当の姿、すなわち「リアル忍者」である。

忍者発祥の地、伊賀、甲賀

三重県伊賀地方と滋賀県甲賀地方は忍者の発祥地として名高く、江戸時代の地誌「近江輿地志略」には「忍者(しのびのもの)伊賀甲賀と号し忍者という」とあり、忍者は「伊賀、甲賀の者」が代表格とされてきた。「甲伊一国」とも言われ、なだらかな丘陵を境に南北に隣り合い、今も交流が盛んである。

京都や奈良などにも程近いことから情報が入りやすく、東に鈴鹿山脈、西に笠置山地に囲まれた山間の地は、時の権力者の恰好の亡命地であり、また大和街道や東海道が通る東西交通の要衝、そして軍事的にも重要な地域でもあった。伊賀、甲賀地方からどうして忍者や忍術が生まれたのか、その答えは忍びの里を訪ね歩くと自ずと見つけることができる。

丘陵に囲まれた城館の宝庫

忍者の里を歩くと、奇妙な風景に包まれる。小高い丘陵に囲まれた風景が行けども行けども続き、迷路のような奥地に誘い込まれる。丘陵の裾野に張り付くように集落が点在し、家々は細かな谷に遮られて見えにくく、隠れ里と呼ばれるのに相応しい。上空から見ると細かく枝分れしたような複雑な谷地形が広がっている。こうした独特の地形は今から300万年前の古琵琶湖層という粘土層が侵食されて出来上がった。見晴らしのよい丘陵の先端や谷の入口には必ずといっていいほど城跡があり、侵入者は谷の両側から攻撃を仕掛けられると、袋のねずみのように退路を遮れた。守りが堅く、攻め難い、これが忍者の里である。

 

城といっても石垣はなく、土を盛り上げ一辺約50m程の土塁で四方を囲んだ館タイプの城館で、土塁の高さは優に5mを越え異様に高い。その数は伊賀、甲賀で800箇所にも及び、日本有数の城館密集地帯である。なぜこのような姿になったのか、それは忍者の組織に求めることができる。

地域の平和を守った忍者たち

忍者の実像は「伊賀衆」「甲賀衆」と呼ばれた「地侍」たちだった。戦国時代、この地域からは大きな力を持った大名が現れず、自らの地を自らの力で治める必要から自治が発達し、お互いに連携をして地域を守っていた。

甲賀衆結束の場、油日神社

地侍たちは一国、一郡規模で連合し合い、そうした自治組織を「伊賀惣国一揆」そして「甲賀郡中惣」と呼び、互いに同盟し合って仲が良かった。一族の結束は強く、「一味同心」に団結し、「諸事談合」して、時には多数決さえ用いて物事を決めており、「みんなで集まり、話し合いで決める」こと、これが忍者の里の「掟」だった。

封建制が強まり、下克上の嵐が吹き荒れる戦国時代にあって、一人の領主による力の支配ではなく、皆で力を合わせて地域の平和を守ってきた姿は、テレビやアニメで描かれる非情な世界とはまったく異なる。

 

それが城館の分布に現れている。ここでは突出した権力がないため特別に大きな城はなく、また同種の地侍たちが集まっていたため、同じ形、同じ大きさの城館が狭い地域にひしめき合う世界が出現した。しかし天下統一を目指した織田信長や豊臣秀吉などの強大な権力の出現とともに、こうした地侍の自治組織も終焉を迎える。

 

一方、戦国時代を通じて忍びの技術は重宝され、各地の大名に仕え活躍していた。中でも天正10年(1582)の本能寺の変後、堺にいた徳川家康が本国三河に帰る最短ルートとしてこの地を駆け抜けた際、伊賀者、甲賀者が家康を護衛し、その活躍が今日まで「神君伊賀越え」として語り継がれている。

多彩な生活文化を育んだ伊賀・甲賀

忍者の生活を見てみよう。彼らは平時は農耕に勤しんだ。伊賀の菊岡如幻による「伊乱記」によれば「午前中は家業に精励し、午後には寺に集まって軍術、兵道の稽古をした」とある。いざ戦となれば村に鐘が鳴り響き、お百姓さんからお坊さんに至るまで、それぞれ得意の武器を持って立ち上がれと「掟」では定めており、村人たちが総動員で戦った。

 

この地域には農業以外にも多彩な生業が芽生えた。奈良時代、東大寺建立に用材を供給した山である伊賀杣、甲賀杣が開かれ、杣人(木こり)たちは大木を切り、木から木へと飛び移って木材を生産した。山には山岳宗教が栄え、山伏たちは山稜で厳しい修行を積む一方、薬草の知識を身に付け、全国各地にお札を配り薬を授けて廻っていた。

 

自然豊かな山野で体を鍛え、諸国を巡り歩くことで情報に通じた。忍者の人並み外れた跳躍術や、走り方、隠れ方、薬の作り方、精神統一の法など、この地に生きる人々の日々の暮らしや、生業の知識、技術が忍者の技として活かされており、忍術は決して荒唐無稽な術ではなかった。

 

延宝4年(1676)に藤林保武が著した忍術秘伝書『萬川集海』にも、火薬や薬などの化学、山伏が育んだ呪術や天文学、様々な忍び込む術が集大成されているが、伊賀、甲賀が育んできた先進的な技術や宗教文化、そして人々の多彩な生活があったからこそ、そこに忍術が生まれたのである。

今に残る忍者の面影

伊賀、甲賀を取り巻く山々に登ってみよう。そこは山岳仏教の霊地であり、今も苔むす石垣に囲まれた寺院跡が残る。伊賀の霊山には数多くの中世の石造物が佇み、近江屈指の修験霊場、甲賀の飯道山では今も山伏たちが唱える読経が響き渡る。巨岩、奇石が屹立した山伏の行場を巡ると、自然を相手に心身練磨をした忍者の修行を体験することができ、呪文と印を結ぶ山伏の姿や、もくもくと焚き上げる護摩の煙に、現代に生きるリアルな忍者が感じられる。

 

里に下りれば、平安時代の数々の仏像に天台密教が栄えた証を見ることができ、厳かな宗教文化に触れれば、忍者に感じる神秘性の背景が理解できるだろう。

 

村々の鎮守の社は忍者たちの合議の場であった。伊賀の春日神社や敢国神社は祭礼行事を通じて結束を固めた所で、その周辺に彼らの屋敷が点在している。甲賀の油日神社に残る廻廊は寄合いの場で、境内で5年に一度、繰り広げられる華やかな奴振に、かつての侍衆が集まり氏神にお参りした名残を見ることができる。

 

里山に入ると土造りの城館が今もそのままの姿で残っており、戦国時代を彷彿させる緊迫した世界が現れる。集落の屋敷は四角く高い土塁で囲まれ、今なお忍者の子孫たちの暮らしがある。伊賀、甲賀の忍者が最も得意とした火薬や薬は、火術を得意とした伊賀藤林氏の氏神、手力神社で打ち上げる花火にその面影がみられ、甲賀では配置売薬に引き継がれ、薬の町として一大産業に発展しており、忍者の知恵が今日の暮らしに溶け込んでいる。

 

エンターテイメントの世界では人々の想像力を掻き立て、多くのスーパー忍者を生み出したが、戦国の世とは程遠い穏やかな風景のなかに、忍者が活躍した痕跡は確かに息づいている。

 

忍者発祥の地、伊賀、甲賀。忍びの里を訪ねれば忍者の真の姿が浮かび上がるだろう。

 

 

(出典:日本遺産ホームページ(https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/index.html

Japan Heritage STORY #05

きっと恋する六古窯

-日本生まれ日本育ちのやきもの産地-

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六古窯と日本人の心

数百年から千年を超える六古窯。すなわち、施釉陶器の瀬戸と焼締陶器の越前・常滑・信楽・丹波・備前である。

中世は平安時代の公家政権から武家政治へと段階的に移行したことに加え、民衆の力が台頭した時代である。そのため、東は静岡県から南は三重県、北は岐阜県高山市近くまで山茶碗窯ができていく。その一大勢力が常滑焼である。常滑の影響を大きく受けて越前焼は平安時代末期の12世紀後半に、丹波焼は鎌倉時代の13世紀に、信楽焼は鎌倉時代後半に開かれた。一方、備前焼は5世紀から続く邑久の須恵器の系譜を引き、平安時代末期から鎌倉時代初頭に備前市およびその周辺に移動したのである。また、瀬戸焼では猿投窯の伝統を受け継ぎ、10世紀後半には瀬戸市南部において施釉陶器を生産したのである。


茶陶の一大ブランドであり後にやきものの代名詞「せともの」となった瀬戸の窯垣の小径、近代主力生産品の土管や焼酎瓶が再利用された土管坂がある常滑のやきもの散歩道、おどけた表情のたぬきたちが出迎える信楽、日本海側に広く流通し福井城にも供給された日本三大瓦のひとつ越前の赤瓦、堅牢な焼き締めを生かし、未来永劫に教育を続けられるようにと瓦に利用した旧閑谷学校がある備前、現存最古の登窯である「丹波立杭登窯」は地域が一体となり大修復と窯焚きが復活するなど六古窯には窯の火を絶やすことなく続く伝統を、世紀を超えて支え続ける情熱を感じられる。

自然を生かす窯業のふるさと

六古窯の産地は良質の「土」に始まる。山中で採れる陶土や古琵琶湖層・瀬戸陶土層の蛙目粘土、木節粘土、そして田土(ヒヨセ粘土)などで、これらをブレンドして使用している。陶工たちは大地がはぐくんできた「土」を数年かけて子どものように育てるのだ。

 

往時をしのばせる山々や丘陵の自然な傾斜を利用した数々の窯跡。50mを超える窯跡を有する国指定史跡「備前陶器窯跡」等がまちを取り囲むようにある。今も窯のふもとには工房があり、赤煉瓦や土管を積み上げた煙突が次々と現れる。
それらに続くように住居を兼ねたギャラリーが軒を連ねているが、細く緩やかな坂道を上り下りしながら迷い込むような路地に入ると古い土塀に焼き物の破片や窯道具やごつごつとした古い窯の破片が埋められていたり、窯焚きに使う大量の薪が積み上げられていたりする。薪は轟々と炎となり陶工の顔を火照らすのであろうと思いをはせる。


また、神社の入り口でそぞろ歩く人々を見守っている陶製の狛犬や陶器で装飾された橋など、いかにも窯業のまちならではの風情を醸し出し、ロマンを感じる。六古窯の営みは、やきものの色合いがそのままセピア調の街並みの趣となっている。

やきものに恋してしまうまち

高温で長時間焼き上げる器たちは堅牢で割れにくく、使用される土や製作、焼成技法などさまざまな条件により、作品の質感や色、窯変などは異なり一つとして同じものはできないといわれる。こうした微妙な違いを生み出すやきものではあるが、それを景色として楽しむ大らかさが日本人の文化であろう。景色に溶け込むように並べられたやきものは千差万別。人の心と同じである。豪快で無骨な常滑焼や越前焼、明るく健康的な信楽焼に質朴で釉流れの美しい丹波焼、堅牢で堂々とした備前焼、そして唯一釉が掛けられた優雅さと逞しさを兼ね備える瀬戸焼と、六古窯の名で親しまれたやきものは、最も日本らしいやきものとして多くの人々の心をとりこにしてしまう。


室町時代後期、わび茶の祖とされる村田珠光が、茶人としての心のあり方や美意識を説いた。15世紀前半には唐物茶壺の価値が高まり、その影響をうけて和物茶壺の生産が始まる。この頃から『わび・さび』の理念の基に、茶の湯は作法とともに道具使いなどにおいて大きな変革が行われた。それに伴い茶の湯の道具、茶陶の生産が活発化した。茶の湯により連綿と受け継がれてきた美意識は、日本人の自然なものへの愛着の現れであり、素朴で素材を生かそうとする控えめな風合いの茶器や食器は名将や茶人、食通に愛されてきた。


土と炎によって生み出され、人々の生活をささえ続けた「うつわ」には、それを享受した人々の、豊かで生き生きとした生命力が宿り、躍動感にあふれている。これらの地域では土肌の味わいと流れる施釉・自然釉の美しさをもつ陶器の存在を通して、時代をたくましく生き抜いてきた人々と大地のエネルギーを五感で感じ取ることができる。

伝統が息づくやきもののまちは心の原点

-そうだ陶郷、行こう。-

六古窯の各地域では自然と人間とを大きな視野で捉えている。窯業は地域の伝統産業として精神的支柱となり、各地の陶芸村や陶芸の里、陶芸センターなどでは、独特の景観のなかで技術と伝統の継承が行われている。それぞれの特色を活かして原点回帰するとともに新しい試みを続けている。古陶ブームと共に伝統技術を復興したつくり手たちが活躍するようになる。信楽ではその技術に注目した岡本太郎氏の太陽の塔の裏の顔の制作をはじめとし、各地にも芸術家が頻繁に出入りし、作品制作を行うようになっており現代美術に昇華している。

また、第85回を数えた瀬戸市の「せともの祭」をはじめ、各産地で行われる陶器市は、海外からも多くの人が訪れる有数のイベントとなっている。店頭に並べられた陶器はさながらまちなかのミュージアムとなり、来訪者は焼き物の肌触りを味わい、使い込むほど味が出る六古窯の陶器を求め、旅情を楽しめる。

六古窯は、各々で育まれた伝統や製作技術とともに、さりげなくそしてほのぼのと来訪者を出迎える街並みとやきものが日本人のおもてなしの心を表している。

 

 

(出典:日本遺産ホームページ(https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/index.html